立派な空手部の伝統
総長 学長 空手部顧問(当時) 髙木 友之助
空手部が本年創部50周年(1990年)を迎えられます事は、関係者の一人としてまことにご同慶に堪えません。一口に50年といいましても、第二次世界大戦をその間に含んだこの時期はわが国にとっても空手部にとっても激動の時代であったといえましょう。創部当初より今日まで それぞれの時代の空手部関係の 皆様の感慨は、この50周年を迎えて格別の物があろうとお察しいたします。
私は昭和41年以来、 剣道部長をいたしておりますが、 駿河台校舎時代は二号館地下の道場が、ちょうど空手部の道場と隣り合わせになっており、その上当時の空手部部長の川添前学部長と私は日頃公私ともに親しいお付き合いをしていただいた関係で、空手部には特別に親近感を覚えておりました。とくに厳冬一月初旬の寒稽古の時は、毎年お互いに頑張っているなぁと心強く思ったものでした。
実をもうしますと、空手部の諸君は他の運動部と同じ様に、自己の鍛練陶治は勿論ですが、一方対外試合に備えてあのような厳しくそして激しい稽古をしているものとばかり思っておりました。ところが、ある時空手部は一切対外試合を行わない主義だということを知り、実はびっくりいたしました。その時、禅堂で警策をビシッと受けたそんな厳粛な感じを覚えたのです。スポーツといえばすぐに記録や勝敗を競うものと単純に考えていた私に、学生スポーツのもつ別の在り方というか根本的なものを眼前につきつけられたような感動と畏敬の念を覚えたのであります。
仏教とは当然のことですが慢心を強く戒めております。慢心はどこからくるか。それは自分と他者との比較から生じます。自分の力を自分以上に評価することは勿論、自分の力を自分以下に評価することも「卑慢」といって戒めています。そして、自分と他者を比較して、自分の力量と他者の力量の優劣・同等を正しく評価することさえも、慢心の一つとしてこれを戒めております。つまり、自・他の力量を比較すること自体慎むべきだというわけです。仏教で自・他を比較してはならないとすれば、一体それはどうしたらよろしいのでしょうか。少し前のことになりますが、テレビドラマの題名で「隣の芝は良くみえる」という言葉が流行した事がありました。隣の芝は映えて美しくみえるもので、それに比較してわが家の芝生のみすぼらしさを徒らに嘆くのは愚の骨頂。他者を羨まずにわが家の芝生の手入れに専念するのが肝要でしょう。しかし、芝生の手入れは、それ程楽で簡単なものではありません。長期間の普段の手入れによって、はじめて美しい芝生を楽しむことができます。スポーツもこれに同様であると思います。スポーツにおける試合は自己と他者の力量の比較に外なりません。自・他の力量の優劣を比較することのみを目的とせず、黙々として自分の欲望を克服して、心身の陶治鍛練に没頭することこそが大切であり、試合での勝敗の結果にのみ心を奪われて、自分の足許も心の底もみつめることもせずはな技巧のみに走ることがあってはならないと思います。
この意味で(私の勝手な推測かもしれませんが)空手部の対外試合を行わないという伝統な、まことに見事であり、学生スポーツの一つの在り方の頂点を端的に示すものとして深い敬愛の念を覚えます。
顧みてこの50年の歩みはまことに貴重であり立派でありました。どうぞ、今後の空手部の皆様もこの先輩の残された伝統を正しく継承され、空手部がさらに発展されますことを心から期待してお祝いの言葉といたします。
【 飛龍】中央大学空手部創立50周年記念号 P22~P23
平成2年11月24日発行