『OB・OG地域便り』vol.1

日本空手道松濤會山形支部長で昭和43年卒林良豪様から寄稿いただきました。

「縁」

昭和43年卒 林良豪

人生の縁とは本当に不思議なものだ。

昭和三十九年四月、十九歳の時に中央大学学友会空手部に入部し、日本空手道松濤會の稽古を始めてから五十六年の月日が過ぎた。多くの稽古仲間に出会い助けられて今日に至る。

稽古人生の中で強烈な思い出は、江上茂先生にお会いしたことだった。江上先生とのエピソードは語り尽くせないが、衝撃的だったことの一つに羽黒の登山を思い出す。

山形県鶴岡市の羽黒山は国宝の五重塔を通り、更に石段二千四百四十六段を登って山頂を目指す出羽三山の一つ。

江上先生御夫妻をお連れした際、先生が石段の途中で突然『おんぶ』を要求された。先生は体重が四十数キロの痩せ型だったので、何気無く軽い気持ちでおんぶさせていただいた。先生が私の背で「林、軽いだろう!」と言われ、次に「これから俺が状態を変えるよ。」と話した瞬間、あまりの重さに耐えられず、二、三歩前進するのがやっとだった。心や状態を変えることによって、同じ重さでも感じ方が変化することを教わったのである。

私が中央大学に入学した当時、大学のキャンパスはお茶の水にあって、空手部道場は薄暗い地下にあり、沢山の空手着が壁側にぎっしりと並んでいた。奥の鏡の前には以前あったと思われる『巻わら』を撤去した後の穴があった。

先輩に大学の中庭で勧誘されたことがきっかけだったが、亡き父より空手を教わっていたこともあり、積極的に入部を決めた。その時の記憶では二百九十人位の学生が入部登録した。

稽古が始まると、かつて経験したことが無い厳しい訓練だった。早い人は一日で退部した。

夏合宿には一年生だけで四十数人が参加し、総勢百人位参加したが、合宿が終了し夏休みが終わって稽古が再開した時には、一年生は二十人近くに減っていた。同期で四年生まで残ったのは十数人だった。

昭和四十三年卒の同期の主将は国光健吾君で、副将は現在松濤會の館長である瀧田良徳君である。皆とても稽古熱心だった。

部長は芳賀史雄経済学部教授、監督は柳澤基弘先輩、師範は江上茂先生と廣西元信先生の両師範、幹事長は前松濤會理事長であり館長の髙木丈太郎先輩だった。

OBが来られる夜間稽古は、始めのうちは一日置きだったが、いつの間にかほぼ毎日の様になり、柳澤監督や髙木丈太郎先輩、沢山のOBが毎晩稽古に来られた。

夜間稽古の内容は、ほとんどが追い突きの組手だった。時には組手の稽古時間が長く、終わりの見えない稽古に涙が出るようだった。

鶴岡では中大空手部に入部したのは私が最初の一人だったが、二年後輩で弟の林良文(主将)、粕谷順一君(副将)、三年後輩の前中大空手部監督の遠藤眞君、昭和六十年卒の阿部等君、平成三十年卒の新橋直樹君(主将)、皆鶴岡市出身で中大空手部に入部したのも不思議な縁である。

また中大空手部の夏合宿が鶴岡市温海温泉で現在まで五回行われてきたことや、髙木丈太郎先輩が私の自宅に宿泊し、二度山形支部の遊天館道場にてご指導いただいたこと、山形支部とスペイン支部の合同稽古が髙木丈太郎先輩の鶴岡訪問と重なり、山形支部の昇段審査もして戴いたことは私達にとって貴重な来歴の一つだ。

昭和四十五年六月、故郷の鶴岡で私達の結婚披露宴が行われ、東京より江上茂先生御夫妻が御臨席下さり御祝辞を戴いた。

そして、鶴岡市の武道館で稽古ご指導いただき審査会を行った。秋に再度訪問する約束をし帰られた。その年の秋、審査会の講評をいただいた後、先生のお言葉により山形支部が発足した。その頃は市立武道館を借用しての稽古だったが、山形支部としての稽古がスタートした。

江上先生はその後十年間にわたり、毎年春と秋の一年に二度、山形支部の稽古指導のため鶴岡に来られ、毎回約一週間、奥様と一緒に私の自宅に滞在し、私の妻が三度の食事を用意した。先生の滞在中は毎日が稽古で、夜は毎晩遅くまで稽古の話が尽きなかった。

私が二十八歳の時、先生の勧めもあって山形支部道場の建築が始まった。建坪五十坪の松濤會の個人道場としては日本一の大きさだった。現在は事情があって半分の広さに変わったが、山形支部道場の建築にあたっては、上下の窓の位置から床の木の種類や幅等、色々な指示を先生から賜り完成した。先生は山形支部道場を『遊天館』と命名し、道場看板の文字も先生自らが書かれた。『遊天』とは江上先生の雅号である。

そして道場内に掲げてある『神武』と『玄妙』の文字は先生が書いてくださった私たちの誉れである。

この頃先生は御身体が弱くなっておられたので、先生の腰に私達が両手を添えて支え、やっと書き上げた。

立って腰を曲げたまま字を書かなければならず体力が必要だった。

先生が残してくださった渾身の二枚の書は畳一枚に近い大きさで、恐らく世界の何処にも無いと自負している。

江上茂先生亡き後は、廣西元信先生が十七年間、毎年一回鶴岡の遊天館道場へ指導に来られた。このことも私達山形支部の誇りである。

さて台湾支部発足に関して述懐する。

私は大学卒業後、二年間台湾に滞在していたが江上先生と連絡を取りながら稽古を続けていた。

台湾中部に位置する台中市で、小学校のグラウンドや講堂などを利用して、一人稽古を継続していくうちに、自然と稽古仲間がどんどん増えていった。その後、台中市の女性と縁があって日本へ連れて帰国し結婚したが、三十歳の時に江上先生御夫妻を台湾に御招待することになり、台湾の稽古仲間のもとに先生をお連れした。そして先生の稽古指導を受け審査会を開催していただいた。

台湾での審査会後、先生の指示で台湾支部が発足した。私は現在に至るまで毎年台湾を訪問し台湾支部の審査会を行ってきたが、私が台湾滞在中に出会い稽古を五十年以上も継続して今日まで努力してくれた林丁南君が現在の台湾支部長である。

山形支部と台湾支部は姉妹支部として互いに訪問し合い、合同合宿など今日まで稽古を続けてきた。

スペイン支部長の昼間厚雄先輩ともご縁があり、江上先生が亡くなられた年から三十年間近く、沢山のお弟子さんを連れて四年置きに鶴岡で合同稽古を行ってきた。

スペインのお弟子さんたちは皆気さくで、とても稽古熱心だった。遠く離れている海外支部の仲間だったが、稽古を始めると心は一体となり、本当にたくさんの楽しい思い出がある。

山形支部と台湾支部が一緒にスペインのマドリード道場を訪問し、スペイン支部と合同稽古をしたことは忘れられない貴重な思い出である。

江上先生がよく言われた言葉に「空手道は入門はあるが卒業はない」がある。

試合形式の勝負にこだわった「空手」だと、どうしても表面的な強さが求められ、内面的なものが忘れがちである。そもそも強さとは何だろうか。

「道場稽古だけでは駄目だよ!」とよく言われた。稽古を自分の生活に結び付けて、常に身体や心で感じる状態にし、「稽古即生活」「生活即稽古」の意味が分かるようになると稽古が楽しくなってくる。審査会の講評でも「ごまかしは効かないよ!現在の自分が全てだから、それ以上は出来ないし、それ以下でもない。素直に全力で演武することだよ!」と言われた。

世の全ての事に通じると思う。

先生は「本当に心からお辞儀をされたら、なかなか斬れないよ。」とも言われた。

『お辞儀』礼をするとは、稽古の基本かもしれない。一番大事なのは『気持ち』で心の持ちようがお辞儀に現れる。形だけでないからこそ、相手の心に響く。

真に心をこめて頭を下げられたら、もう斬れない。その相手を攻撃する気持ちすら無くなる。

「グラスは常に空にしておけ」とも言われた。

満杯に注がれたグラスには、もう何も入らないだろう?溢れてしまうだけだ。せっかくためになる話を聞いても、心が満杯では響かない。心を常に空にしておくことだ。

先生が夜おやすみになる前、毎晩私は先生の頭のてっぺんから足の先まで、約一時間指圧や按摩をしていた時の話である。

翌朝先生にお会いすると「林!お前は残心が足りない。身体をほぐした後、終わって帰る時に気持ちが切れている。せっかく気持ち良く眠れそうなのに、また目が覚める。」と言われた。私はその日の晩より気持ちを変え、終わり方も終わった後も先生と一緒にいるようにし、部屋を出た後も気持ちを残るようにした。その後、先生は何も言われなくなった。有難い稽古だった。

先生は「俺の身体は弱っているから誰でも良い訳ではないよ。相手の身体が弱っていると俺の身体も参ってしまうんだ。」と言われ、限られた者にしか先生のお身体を触ることは許されなかった。実際先生は屎尿便を用意させ、部屋で用を足した。目の前にあるトイレに行くのでさえ辛かったのである。

命懸けで空手道を教えて下さった恩に不肖の私も報いたいと思っている。

忘れられない先生の言葉は言い尽くせないが、「挑まれたら自分の負け、受けたらなお負け。」と言われたことが心に深く残っている。

挑まれるようでは稽古が足りないのだ。

挑まれないような生き方をする、

日常生活の目に見えない組手に対してどの様に空手道として感じるか、人に会うことは全て組手と言っても過言ではない。この様に空手道としてとらえた場合
遠くて長い道だと思う。

今は気付かない事も、稽古を継続すれば自然にいつか気付くこともあるだろう。現在中央大学空手部で稽古している皆さんも卒業した皆さんも、縁があっての今日だ。このかけがえのない縁に感謝して、皆で発展させていけたら幸せだと思う。