機関紙『松濤館』への記事掲載について(第205号)

 松濤館が定期的に発行する機関紙にて、現部員の記事が掲載されていますので、この場を借りて紹介させていただきます。

 機関紙『松濤館』については会員専用ページに転載しておりますので、そちらを閲覧ください。

かがみの稽古

中央大学 荒川 己々実

 人は一日に何回鏡で自分の顔や容姿を見ているのだろう。ネット調査会社株式会社アスマークが行った、鏡に関するアンケート調査によると、「あなたは、毎日何回くらい鏡をご覧になりますか?」という質問に対して 1~3 回が 42.2 パーセントで最も多く、4~5 回が27.3 パーセント、6~8 回が 13.7 パーセントと回数が増えるとその割合は減少する。心理学的にみると、鏡を見る回数はその人の「公的自己意識」の高さに比例するらしい。公的自己意識とは自分が周りからどう思われているか気にすること。また、公的自己意識の高さはその人の魅力にも比例するらしい。アメリカの大学で、廊下に大きな鏡を設置し、その前を通る女子大学生の反応を観察するという実験が行われた。すると、周りから魅力的と思われている学生ほど鏡を見る回数が多かったという結果が出た。しかし私は、アンケート調査の鏡を見る回数が少ないという結果でもなく、アメリカの女子大生の実験でもなく、空手の稽古で鏡を見ることの大切さに気付かされたのであった。

 昨年の冬、熱心に部の運営と私たち後輩に指導稽古をしてくだった4年生の引退を受け新しい幹部を中心に新制中央大学空手部が始まった。私は春に 3 年生になったわけだが1つ上の代の先輩が1人しかいらっしゃらなかったので 3 年目にして部の運営や後輩の指導をすることになった。ありがたいことに新入部員の数が多く、後輩指導にも熱が入るのを同期たちから感じた。 しかし、葛藤が生まれる。 1年生への指導で普段の稽古はあっという間に終わってしまうので自分たちの稽古ができなくなる。まだ空手部に入って3年目の自分が教えられることはあるのか、まだまだ下手なのにと心のどこかで自身が持てず悩む日が続いていた。また私はこの時2級だったため帯は新入生と同じ白。私に教えてもらいたいと1年生に思われる気がしなかった。 柔軟や組手練習の時、1年生とペアを組む時も心につっかかるものがあった。今思うと、自信をもって指導をできなかったこのころの自分は、私の指導や話を真剣に聞いてくれていた下級生に対して本当に失礼であったと思う。申し訳なかった。 思うように自分の稽古ができないのに、しっかりと後輩指導を行ってくれていた黒帯をつけた同期を見ると、次の夏の審査会でどうにか初段に上がり、自分も同期の助けになりたいと未熟ながらにも思った。私はこの思いを同期に相談することにした。「思うような型ができない。 稽古をしているときももどかしくなる。 先輩がいない今、どうやって自分の型の完成度をあげているのか。 」 彼女は答えた。 「稽古は自分でするものだから。 誰かとするものでなく、最後は自分ひとりで型はするものだから。 」私は最初、彼女の言っていることが分からなかった。それまで私が思う稽古の形は、指導者が前に立ち、私たちの動きを見て、改善点やアドバイスをするものだと思っていたからだ。だが、彼女曰く、稽古は自分ひとりだけで完結するものらしい。

 自主練習をするとき、多くの人は道場にある鏡の前で稽古をする。あるいは型の動画を見ながら動きを修正していく。 このやり方が1番効率いいのだろう。しかし、私はこの作業がとても苦手だった。自分が下手であることをよく知っていたから恥ずかしくて見ていられなくなる。 私が鏡を見ることが苦手なのは空手だけではない。 美容室や成人式のメイクなど、長時間自分の顔を見ることが苦手だった。朝起きて顔を洗ったときに見える自信のなさそうな表情を鏡越しに見ることが苦手だった。不完全な自分と向き合うことが嫌いだった。

 しかし、稽古とはそういった自分から目を背けずに、逃げないことなのだと私は気づいた。稽古の時間は唯一自分と、一対一でじっくり向き合うことができる時間になっていた。 鏡の前では自分の立ち方、 突き方、払い方、蹴り方を徹底的に研究ができた。鏡が目の前にないときは心のかがみで稽古中の自分を見た。 呼吸の仕方、意識の持ち方、重心移動などほかの人の目や鏡ではくみ取れない私を見つけて補っていく。先輩や教えてくれる同期がいないときはどう稽古したらいいかわからなくなっていた私には大発見だった。

 稽古に対する向き合い方が変わってからは後輩への指導中に自分が教えていいのか、自分も練習しなくてはならないのにと焦ることが減った。 「かがみ」をみて自分と向き合うことは空手のほかにも活かせるところがたくさんある。例えば人とのコミュニケーションをとるとき。相手は自分をどのように受け取っているかはまず、自分がどう見えているかを確認する必要がある。表情や姿勢、 声の出し方など鏡で確認する習慣をつけた。 自分に自信がなく、人の目を見て話すことが苦手だったがそんな人の話は誰も聞いてくれないと直すように努力した。自分の嫌いな自分から逃げずに、向き合って直すことをした。 いつの日か、鏡の中にいる自分に向かって追い突きをし、強い突きを研究したあの時のように。

 勉学、バイト、就職活動、友人づきあい、そして部活。やることが多い大学生活には悩みも多く、自分を見失うことがよくある。自分と人とを比べてはまた落ち込んで、 そんなもんかと自分に期待することをやめてしまったりする。それでも、人生 100 年時代の今、20 歳前後の未熟すぎて青すぎる自分が、 欠点、理不尽すぎる合理、痛すぎる経験を乗り越える方法を見つける場所に空手部を選んでよかったと思う。 好きなドラマのセリフがある。 主人公の男の子は、幼馴染の女の子が分厚い眼鏡をやめ、コンタクトデビューをし、その姿に恋に落ちた瞬間にこの言葉をいう。 「どんな運命も決して逃れることはできない。正面からぶつかるだけだ。だが人生には予想外の贈り物もある。 悲しみの後に喜びが待っていることも。未来は不透明なものだ。感覚を研ぎ澄まして生きていかねばならない。 」いつ、コンタクト姿の初恋相手に出会ってもいいように私は私の「かがみ」を見つめることで準備する。引退まであと 1 年。どうやら鏡に映る嫌な自分から目を背ける時間はないらしい。

出典:日本空手道松濤會 機関紙『松濤館』第205号 (令和5年11月31日)