機関紙『松濤館』への記事掲載について(第191号)

『空手道入門』を読んで       

法学部2年  廣谷 凛

 新型コロナウイルスが世の中を震撼させている。中央大学空手部では、春合宿が中止になるという異例の事態となった。あっという間だったこの一年の締めくくりとして、また、まもなく後輩を迎え入れることになる立場として、私にとってこの春合宿はとても意味のあるものであっただけに、どうにもやりきれない気持ちでいる。お世話になった四年生方の引退に心細さを感じていた上にこの春合宿の中止は、自分がこんなにも未熟なまま後輩を迎えることが出来るのだろうかという不安を大きくした。

 この不安を少しでも和らげる為、この一年学んできたことを振り返りつつ江上先生の著作・『空手道入門』を熟読することとした。そこで、当書を読んでいく中で特に強く心に残った内容を三つ、ここに記させて頂く。

 まず印象に残ったのは、「老幼男女誰にでも出来る、それが本当の稽古であり、またそうでなければならない」という江上先生のお言葉である。

 入部当初、一年生の女子部員から四年生の男子部員まで皆同じ数の兎跳びや双蹴りをこなすことに戸惑いを感じた。二人一組になって互いに突きを出し合う時、男子部員と組むと力の差を感じてしまい弱気になってしまうこともあった。

 『空手道入門』の中で江上先生はこの「老幼男女に関係なく出来る稽古」というものを幾度となく強調しておられる。江上先生自身、胃の摘出手術をされた折に体力や腕力といったものに対する自信を無くして暗澹たる状況に追い込まれた時期があったこと、その際に船越義珍先生の遺されたこの言葉をふと思い出され、稽古に一生をかける覚悟と決心をなさったことが綴られている。力、強さといったものは単に体力や腕力を意味するものではなく、より包括的で広範な意味合いを持つのだという。「総合的な人間の力」と表現されている箇所もある。誰にでも同じように稽古が出来て、しかも突きや蹴りが同じように効かなければ意味がないのだと。力と力のぶつかり合いではなく、体の大きさや腕力の強さの関係のない、勝負を越えた世界を目指して稽古してほしいというのが江上先生の願いである。

 思い返してみると、日々の稽古の中でこの事を教わった経験があった。ある男性の先輩と組手を組ませて頂いたときの事である。空手の世界において、「女性だから」「腕力がないから」などという事情は大した問題ではなく体の使い方次第でどうにでもなるということ、そのやり方を身に付けることが必要なのだと、そのようなご指導を受けた。突きや受けに体重を乗せること、呼吸を止めずに拳に力を集中させることなど、勿論今の私に簡単に出来ることではないが、意識をすれば動きは多少なりとも変わってくる。組手の中で実際に技をきかすことの有効性をわずかながらでも実感出来たことは、稽古の面白味を味わうことに繋がったと感じる。兎跳びも双蹴りも、体力がどうこうではなく(勿論体力をつけるためだけのものでは無いが)、それぞれが己の限界に挑戦することに意味があるのではないかと思えるようになった。性別や年齢に囚われることなく、真摯な姿勢で稽古に取り組んでいこうと思う。

 次に、技の意味を考えることの重要性について記す。『空手道入門』を読んで、改めて「考えて」稽古をすることの意義を学んだ。当書には一つ一つの動きがどのような理屈で成り立っているのか、技の解釈や動きの変遷が事細かに説明されており、技が「きく」ためにはどのようにすればよいのかを江上先生が自ら考え、試行錯誤された上で今の形があるという事が記されている。

 前進しながらの突きというと、今私達は当たり前のように手と足を同時に動かそうと意識するが、昔は手と足がバラバラの動きであったそうだ。手だけで突いていたのだという。しかし「最小の力で、最大の効果を」という考え方を突き詰めると、手足というよりも「腰」に意識を向けて動くことが大切であると、だんだんと分かってきたのだそうだ。腰で突けば手も足も自然について、一緒に動く。手と足をいっしょに動かそうと考えるのではなく、結果として手と足がいっしょになる。この発見に、今私達が学んでいる空手の基礎があるのだと思うと感慨深い。

 私はこの一年、空手の動きを身体で覚えることで精一杯だったように感じる。前屈や後屈の重心はどこなのか、下段払いの腕の動き、蹴りの際の足の軌道、といったようにまずは正しい動きを身に付けることを意識していた。勿論それらは重要なことである。しかし、「正しい動きをしよう」という意識だけでは足りないと気が付いた。「なぜこうするのか」そして「なぜこうしなければならないのか」を考えることが稽古である。受動的に稽古をこなすのではなく、一つ一つの動きの意味を考えてより能動的に、充実した稽古をしていきたいものだと考えさせられた。

 最後に、この本を読んで改めて考えた基本の大切さについて記す。私自身、空手を始めてまだたった一年である為そもそも基本しか学んでいないのだが、今後空手を続けていくにあたり、このことは常に心に留めておきたいと思う。江上先生は、「基本は究極である」と仰っている。勉学やスポーツなど何についても当てはまることではあるが、人間は最初は謙虚で素直であっても、馴れてくると日々の稽古が単調に感じられたり、全てわかった気になってしまうものである。

 自分に当てはめて考えると、型や組手ばかりを練習して基本をおろそかにするような事は決してしないようにしたい。拳をしっかり握ること、真っすぐ思い切り突くこと、目線を落とさないこと、太極初段を全力でやること。この一年で先輩方から教わった基本を大事にし、後輩が出来ても、段位を取れても、「初心忘るべからず」の意識を持ち続けたいと思う。

 今この一年を振り返ってみると、私が空手部で学んだことや得たことは空手の技術だけではない。空手を通じて武道の心得や礼儀を学ぶことは勿論、仲間の存在によって気づかされ、影響されたことが沢山ある。OB・OG及び現役の先輩方、同期、他大学の空手部の方々など、空手部で得たご縁はすべて私が空手を頑張ろうと思える原動力となっている。逃げ出したくなるような辛い稽古の時も、隣りにいる同期が頑張っている姿を見て自らを奮い立たせ、乗り越えることが出来た。私が空手と出会い稽古を重ねていく中で、空手に真面目に向き合おうという気持ちをここまで育むことが出来たのは、右も左も分からなった私に親身に寄り添ってくださった先輩方のお陰である。江上先生が「自己を知り相手を知る。そしてそのかかわり合いを知る。それが稽古です。」と仰っているように、空手道は肉体の鍛錬だけに留まらず精神の成長をも促すことが出来ると身を以て知ることが出来た。

 そして今回『空手道入門』を通読したことで、予想を超えた発見や学びが多くあったと感じる。以上に記したことは当書のほんの一部ではあるが、今の私に響くものばかりであった。力や強さといったものの本当の意味、技の意味を考えることの大切さ、そして「初心忘るべからず」の心掛け。普段の稽古ではどうしてもテクニカルな部分の上達を意識してしまい、空手という武道に対する視点が狭くなりがちである。しかしそこだけを見つめていては、技術の向上は出来ても空手という武道の本質には迫れない。江上先生の遺されたこの本を通読し俯瞰的な視点を持てたことで、このような気づきを得ることが出来て良かったと心から思う。

 江上先生の訓えの一つには、本当に強くなる為に「相手と一体になる」ことが必要だというものがある。文字通り相手と同じに感じ、同じ気持になる。相手になりきる。そのために自我を捨てるのだと。「相手と一体になる」と口で言うのは易しいが、それが一体どのような境地なのか今の私には想像も及ばない。空手の世界は奥が深く、私はまだその入り口に立ったばかりである。先輩方から教えを受け、よしやろうと思ってもすぐには出来るようにならない事の方が多いはずだ。

 また、稽古を続けていると時折自分を甘やかしてしまい、自己嫌悪に陥ってしまうこともある。しかし「きつい」「苦しい」と思う経験、そしてそこに対して全力で体当たりする事の出来る経験を今することが出来て良かったと思う。

 出来ない事に対しても出来るだけ「やろう」とする意識を持って焦らず一歩一歩着実にやること。そして弱い自分に向き合い、そこに打ち勝つ強い意志を持って稽古に取り組むこと。『空手道入門』を読んで知り、考えたことをこれからも忘れずに、自分の限界を決めずがむしゃらに稽古に励んでいきたい。

出典:日本空手道松濤會 機関紙『松濤館』第191号 (令和2年4月30日)